外国語学習の困難さ

どの外国語にも、いわゆる、共同幻想の堅牢な世界があり、
その世界のなかで、エリートだけでなく、庶民も、
勝手知った単語、概念を堂々巡りする、
幻想会話ゲームを楽しんでいる。
そして、誰もが、名人芸のように、
決して、地雷タブー語には、触れようとはせず、
絶妙に、避けてとおる。


そんな世界が浮かび上がってこないと、外国語学習は、
何の味もしない、砂を噛むような、永遠の、苦行であろう。


中国語は、漢字概念の、日本語との共有により、
概念世界ヘ最初の一歩を踏み入れる困難なしに、
第二ステップから、学習を始められる、唯一の外国語である。


ハングルは、初めから、日本語の亜流と舐めてかかるか、
まったくの異言語として、暗闇を、手探りで、進むかによって、
共同幻想の堅牢な世界の発見過程が、まったく異なる。


前者は、最初は、どんどん進むが、
途中で、日本語とまったく異なる概念に、
しばしば交通事故のように、ぶつかって、茫然自失となるし、
後者は、あまりの難解さにまったく進まないが、
目が慣れてきたら、
ナーンだ、日本語と同じ概念世界じゃないかと、
拍子抜け、するようになる。


学校英語は、共同幻想の堅牢な世界を、完全に、無視したまま、
形式的に、どんどん、難解な内容に進んでいく。
結果、2種類の、生徒が、できる。


A:どうにかして、共同幻想の堅牢な世界を、感じて、
英語を、異なる人間世界の表象と理解できるもの。
B: Aを、俗流への妥協として、徹底的に排し、
和製英語共同幻想の堅牢な世界に、しっかりと、閉じこもる者。


Bが、教育界のみならず、社会のあらゆる分野で、
Aを、圧倒しているのは、周知の、とおりである。