アラブーペルシャーインド と、中国ー朝鮮ー日本の類似と差異

アラブに生まれたイスラム教は、いろいろな派を、分裂させながら今日に至っているが、その中で、もっとも強硬に正当性を主張するシーア派は、異民族ペルシャの国教となっており、そのことが、アラブ民族を憤激させる。
アラブ人からみたシーア派は、硬直した教義とイマムによる独裁で寛容さを失ったイスラム教だ。
他方、ペルシャシーア派から見たアラブ人スンニ派は、ご都合主義で、堕落したイスラム教だ。ときに、ちゃんとした、イマムすらいない。
イスラム教は、インドにも、進出したが、ここは、ヒンズー教アニミズムが支配する世界だ。
思想闘争では、ヒンズー教は、イスラム教の敵ではない。
しかし、ヒンズー教徒は、頑固に、自分たちのカーストピラミッドの世界に住み出てこない。
イスラム教徒がヒンズー教徒を、無理に、カーストピラミッドから、引っ張り出そうとすると戦争になる。
ながい騒乱の末、イスラム教徒は、ヒンズー教徒を、もう、迷信から、引き離そうとはしなくなった。
イスラム教徒は、ヒンズー教徒のはぐれ者を、モスクに、招きいれ、ヒンズー教の民衆社会には口を出さず、両者の間には、限定的な平和が保たれている。



中国に生まれた儒教は、いろいろな派を、分裂させながら今日に至っているが、その中で、もっとも強硬に正当性を主張する李退渓朝鮮儒教は、ながく、異民族朝鮮の国教となっていた。このことが、中華民族を憤激させてきた。
中国人からみた朝鮮儒教は、硬直した教義と儒者両班)による独裁で寛容さを失った儒教だ。
他方、朝鮮人儒者から見た中国人儒者は、ご都合主義で、堕落した儒教だ。ときに、ちゃんとした、儒者すらいない。
儒教は、日本にも、進出したが、ここは、神道アニミズムが支配する世界だ。
思想闘争では、神道は、儒教の敵ではない。
しかし、神道の氏子は、頑固に、自分たちの士農工商穢多非人の世界に住み出てこない。
儒者神道の氏子を、無理に、士農工商穢多非人の世界から、引っ張り出そうとすると、腐儒者と嘲笑される。
ながい騒乱の末、儒者は、神道の氏子を、無理に、士農工商穢多非人の世界から、引っ張り出そうとしなくなった。
儒者は、寺子屋(現代では学校)限定で、儒学の心得を説き、神道が支配する民衆社会には、口を出さず、両者の間には、限定的な平和が保たれている。


ただ、ヒンズー教も、神道も、思想啓発を無視し、生まれのみで、秩序を維持するので、下賤の生まれには、逃げ道がない。
それで、ヒンズー教は、仏教、ジャイナ教、など、逃げ道の多くの新宗教を派生させてきた。

イスラム教徒との接触以降も、シーク教など、新宗教の派生は、今日まで、連綿と、続いている。

神道は、ヒンズー教より、ずっと若く、尊皇思想として、これから、興隆に向かう途上にある。
やはり、大本教金光教天理教など、多くの逃げ道の新宗教を派生させつづけている真っ最中である。



儒教の影響が強い新宗教もあれば、そうでない、新宗教もある。これからも、新宗教は、連綿と、誕生してゆくだろう。


アラブーペルシャーインドでは、さらに、古い宗教の痕跡として、ユダヤキリスト教の存在も無視できない。  
中国ー朝鮮ー日本では、さらに、古い宗教の痕跡として、仏教の存在も無視できない。
しかし、欧米とインドの現在の政治経済軍事力の差から、両者の両地域へのプレゼンスに大きな差異があるのは已むを得ない。


ヒンズー教の横暴から逃げた者が、仏教を作り、スリランカに逃げ、今、スリランカ仏教徒が、ヒンズー教徒を、虐殺している。


いつの日か、神道の横暴から逃げた者が、新宗教を作り、沖縄あたりに逃げ、いつに日か、新宗教のウチナンチューが、神道のヤマトンチューを、虐殺する日がくるかもしれない。


アニミズムの世界では、思想闘争による言語の整理整頓機能が麻痺するので、言語は、果てしなく、複雑化、かつ、煩雑化する。

インドの多言語状況も、言語の整理整頓機能が麻痺している以上、統一は、不可能だろう。
日本も地方分権なんて言っていると、あっという間に方言ネイティブだけになって、各地方間の意思疎通機能が失われる?


アニミズムの世界では、世界認識は不可能である。
インドと日本の、世界からの孤立被害妄想状況の改善は難しいだろう。
世界認識者を、寄って集って、棍棒で殴り殺してしまうしまう文化がいまだに
息づいている。

特に、日本では、今後、数世紀、その傾向の過激化が予想される。