俳句とは行動者の文学? モダンアートとは思索者の芸術?

角川春樹の自伝を読んで、ふと、思ったのだが、俳句とは、行動者の文学なのではないかということだ。
俳句が、政財界のお偉いさんなど俗人のなかに、根強い陶酔者を持つこと。
しばしば、第二文学と、みずからを卑下する傾向があること。
これらは、俳句が、行動者の文学だとすれば、合点がいく。
つまり、思索者の文学ではないということだ。

思索者が、大海にたゆとい、陽に照らされてキラキラ輝く波のように、無数の観念の万華鏡の揺れ動きに見とれているとき、
行動者は、目の前の現実を、鋭利に切り取り、明確な形に、再構成する作業を、手早く、永遠に、続ける、エキスパートと、なっていく。
行動者は、日常において、観念を、ピタリと、封印している。
しかし、ある瞬間、思いもよらぬ、状況の変化や、啓示に、封印していた観念が、一気に破れ、噴き出す。
それを、一瞬のうちに、575の17文字に、照射し、焼き付けるのだろう。