全国共通テストで、太宰治への思いを述べよ?

中三生対象の全国共通テストの国語第2問は、「太宰治、没後100年、今も色あせない魅力」という、架空の新聞記事を、テーマに、太宰治への思いを述べよ、というものだった。


案の定、東北地方の平均点が良くて、特に、太宰の出身県の隣県の秋田県の平均点は、抜群で、秋田県の全国最高平均点に、大きく、貢献していた。
他方、沖縄の平均点は群を抜いて低かった。


いったい、基礎学力とは、何だろう?と、根本的な疑問を、覚えざるを得ない。
架空の新聞記事という誘導があっても、太宰治の本を良く読んでいる子は、たくさん書け、まったく、知らない子は面食らって白紙という子も多かっただろう。
東北の子は、ほとんど太宰の感性に共感でき、知っている子が多い一方、西日本の子は、外国文学を読むように、ピンとこず、知らない子が多い。
それを、同一土俵で、戦わして、西日本の子は、文章力におとる、基礎学力が、不足していると、断罪するのだろうか?
太宰治が、嫌いな子は、誘導にかかわらず、嫌いと一言、書くだけだろう、それでは、Xなのだろうか?


出題者は、太宰治は単なる素材で、問いに、論理的に、答えられるか否かを問う問題だというだろうが、それは、不自然だ。
人名は、数式ではない。


誰も、人名について、どれだけ具体的に知っているかによって、その人に対する文章の豊かさは、影響される。


「大山川夫、没後100年、今も色あせない魅力」とでも、名前を、変えてみる。
大山さんを偲んで集まった人は、みんな、宙返りをしていました、とかいう、本文に対し、感想を、書かせてみたらいい。
白紙続出だろう。

ところが、大山さんが、宙返りで、有名な劇の脚本を書いた人で、いまも、再演されつづけており、
役者を目指す人は、みな、この劇に出演するため、宙返りを必死で練習することが、慣例となっている、という、背景を知っているとすると、感想を書くことができる。


出題者は、いうだろう。
『「大山さんを偲んで集まった人は、みんな、宙返りをしていました」のところを読んで、お茶を飲みたくなりました』で、正解です。
どんな感想でも、オリジナルな感想が、あればいいのです。
これは論理的な思考をみるための出題なので、真剣に感想を考える必要はまったく不要なのですから、と。
じゃあ、問題文にそう書けよ!


そんなことを、露も知らず。
100人中100人が、どこかで聞いた太宰治を、必死で、思いだし、試験官に、自分の思った事を読んで貰おうという気持ちでかく。

ツイッター慣れした子など、変な感想を書けば、警察に通報がいって逮捕されるなんて怯える子もいるかもしれない。

担任教師に、感想を読まれて、ふーん、お前、太宰治、そんなに好きなの?なんて、からかわれるなんて、絶対、嫌だ、という、女生徒もいるだろう。

思想検査みたいだし、賢明な子は、白紙で出すだろう。
太宰治は、かつて、破壊分子として、特高に追われていた経歴さえあるのだから。


単なる論理問答ゲームだと、出題意図を見抜いて、形式だけの感想を書く、ゴルゴ13のような生徒は、皆無であろう。


いくら、塾の先生が、論理ゲームと割り切れといっても、ふざけた受け答えをするたびに、親に叱られて育った真面目な子どもに、試験の大一番で、感想の内容などどうでもいい、ぱっとおもいつた事を書けばなんでもいいといっても無理だ。


どうしても、論理ゲームとして、出題したいなら、作家Aとでもして、記事も、有名作家を連想させるようなエピソードは避けるべきだ。


九州では、太宰治といえば、太宰府天満宮の梅が枝餅は、美味しいです、なんて、苦し紛れの珍答案も、ありそう。
部分点ぐらい、あげてよ。


   X年後、中三生対象の、全国共通テストの国語第2問は、「小沢一郎、没後10年、今も色あせない魅力」という、架空の新聞記事を、テーマに、小沢一郎への思いを述べよ、というものだったりして。
結果、当然、岩手県が学力全国一となり、優秀な岩手県学生を国政に登用するために、政府高官、岩手県学生採用特別ワクが、設定されたりして。