人間のファームウェアは、言語なのかな。

生まれつき脳というハードウェアには、個人差があるのかな。
ファームウェア(言語)を、入れ替えることで、新しい人間になっちゃうのかな。
2つのファームウェア(言語)を、入れると、多くの場合、コンフリクト(衝突)を、
起こすのかな。


たしかに、西日本新聞を、ちらちら見だした小学生のころ、それは、巨大な謎だった。
やがて、何かの機会に朝日新聞を読んだとき、物凄い違和感をもったことを、覚えている。
中学になって、英語を、学びだしたとき、まったくの謎だった。中学から、生徒が荒れるというのはよくわかる。日本教育は、初期概念の形成について、あまりにも、ぶしつけで、乱暴だ。
英語の全貌がなんとなく見え出したのは、大学に入って、アメリカンセンターに、日参してからだ。
そこの英語は、学校英語とは、まったく、異なっていた。
ロシア語も、いったい、何なのか、謎だった。いまでも、謎は、解けていない。
でも、独学したので、ロシア語学科の生徒のように、文法の精緻な理解と引き換えに、
ロシア翼賛、或いは、敵性言語として学ぶという、単純化は、免れた。
フランス語は、ヨーロッパ言語なので、ロシア語より、全貌を掴み易いだろうと
一瞬、思ったが、やはり、言語である以上、まったく、違う、言語世界が、あるに、違いないと、初めから、警戒していた。
それが、よかったのか、全ヨーロッパが、憧れ、怯むような、あえて、物事の逆を突破する強烈なフランス魂が、あることが、よく分かった。
あと、旅行したこともあり、イタリアの心理的な複雑さ、スペインの行動的虚無主義
についても、よく分かった。
ドイツの初心と純情、田舎の貴族化したオーストリアについても、よく分かった。
スイスの功利主義チェコの生活主義、ポーランドの貴族主義、北欧の理想と節制主義などもよくわかった。
まったく不完全ながら、欧州についてはなんとなくわかった。
(もちろん、ひとことで、言い尽くせるものではない。各国をよく知っていて、ここを、偶然、訪れた人、目をつぶってね。)
欧米で、苦労してからみると、東亜は、案外、心理的に、近い存在である。
朝鮮も、中国も、同じ、違う、同じ、違う、同じ、違う、・・の、心理的ジグザグ
を、繰り返しながら、いつの間にか、それぞれの言語に対応できるようになっている。
じつは、ベトナムも、近い。中国より、近いかもしれない。